生産性に人間は価値がないのか
モンテッソーリ教育に限らず、子どもと接する出発点に位置づけなければならないのは「子どもの受容」です。
そして、その子どもは確実に「一人ひとり違う」存在です。
先日の新聞には非常に人間性を疑う記事が載っていました。平成30年7月24日の朝日新聞です。
『子供作らない同性カップル「生産性ない」』というものです。記事を抜粋しましょう。
自民党の杉田水脈衆院議員(比例中国ブロック)が月刊誌への寄稿で、同性カップルを念頭に「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか」と行政による支援を疑問視した。
という記事です。
「生産性のない人間は価値がない」という考え方にはいくつかの姿勢がうかがわれます。まず、人間を生産性のある人間と、生産性のない人間にふるいに掛け、生産性のある人間だけが優秀であるという傲慢な姿勢。生産性のない人間を受容するどころか否定する姿勢。この思想を突き詰めていくと第2次世界大戦の時のナチスや、2年前の相模原障害者施設殺傷事件の犯人のような思想にいたります。障害を持った人間は価値がない。この世界からいなくなるべき存在であるわけがありません。
障害児教育から出発したモンテッソーリ教育
翻って、モンテッソーリ教育は一部の人間が、生産性がないから価値がないと主張する障害児と出会うことで医師から教育者へと転身しました。
ローマ大学の医学部を卒業したマリア・モンテッソーリには卒業と同時に専門の地位が与えられました。それは大学付属の聖ジョバンニ病院の助手という仕事でした。
モンテッソーリに与えられていた役割の一つに、ローマ市内の精神障碍者の保護施設に行って、クリニックでの治療に適した症状を持つ患者を選び出すという役割がありました。
保護施設には知的に遅れのある子どもも収容されていました。学校や家での生活に適応できず、他に何の公共施設もないままに、保護施設に送り込まれてきた子ども達です。凶暴な精神障害犯罪者らと一緒に閉じ込められて生活をしているのです。
モンテッソーリは医者であり、人間の苦しみを救うことを目指していました。特に、子どもの病気には特別な関心を寄せていました。また、社会改革にも情熱を傾けていました。この時点までのモンテッソーリの生涯すべてが「知的に遅れのある子ども達」に対してモンテッソーリ自身を知らず知らずの内に敏感にさせていたのでしょう。
保護施設では知的に遅れのある子ども達が囚人のように閉じ込められ、誰にも会うこともなく、ぼんやり宙を見つめるか、眠るか、食べる以外何もすることはありません。そして、食事を運んでくる世話人はモンテッソーリに対して、嫌悪感を込めて子ども達のことを語りました。「この子らは食事が終わると、床の上を這いずり回って、汚いパンくずを拾いあさるんですよ。」と。モンテッソーリはそれを聞いて、パンくずに手を伸ばし、じゃれついたり、口に入れてみたりする子ども達の姿を想像しました。それから、その子達が収容されている部屋を見まわしました。そして、こう思ったのです。「この子達は食べ物に飢えているのではなく、経験に飢えているのだ。」と。子ども達の周りには感覚を刺激するものが何もなかったのです。食事の度に出るパンくずだけが、恐ろしいほどの退屈から解放される対象だったのです。
モンテッソーリは考えました。この知的に遅れのある子ども達は保護施設で世話をしてくれている人が思ってもみないものを必要としていると。この子達の精神は全く使いものにならないわけではなく、使われていなかっただけだと。なぜならば、パンくずのようなものにさえも刺激を見つければ反応するのだからと。
病院や神経クリニックで働いたりしている間にもモンテッソーリはこの子ども達のことを考え続けました。発達遅滞の子ども達について書かれている文献は入手できるものはすべて目を通しました。
そして、ついにフランス人のジャン・マルク・カスパー・イタールとその弟子であるエドワール・セガンの業績を発見します。この二人が著した文献の中にモンテッソーリは彼女の考え方に新しい方向を与え、全生涯をかけた仕事の進路を定めた、いわゆる天の啓示を見出したのです。モンテッソーリ教育は障害児教育から出発しているという事実はここに起因します。そして、モンテッソーリ教育の基盤はこの二人から受け継いだものと考えてよいでしょう。
モンテッソーリは自分で観察した知的に遅れのある子ども達と照らし合わせて、セガンの業績は探していた答えを示唆していると強く感じたのです。そして、その示唆する答えとは、「発達遅滞とは、医学的というよりも主に教育的問題である」というものです。病院では治療することができないもの。学校での教育を必要とするものということです。
この時、初めてモンテッソーリは教育に目を向けたのです。知的に遅れのある子ども達、発達遅滞の子ども達との出会いがモンテッソーリを医者から教育者へと転身させたのです。
1897年から98年にかけて、ローマ大学教育学部の聴講生として教育学のコースに出席し、過去200年間の教育に関する主要な文献をすべて読破します。これらの文献の中で見出した理念の多くが、モンテッソーリの中で少しずつ凝集され、モンテッソーリ自信の理論を形成していきました。
つまり、モンテッソーリ教育を形成する一つの基盤が医師イタールとセガンによる発達遅滞の子どもの研究であり、もう一つの基盤は教育者フレーベルから、ペスタロッチやルソーにまでさかのぼる子ども達の教育についての理念でした。
私達に必要な姿勢
モンテッソーリ教育は生産性のあるなしに関わらず、すべての子ども、人間に公平に育ちのチャンスを与える教育です。
私達にすべての子どもを、人間を受け入れる姿勢が必要です。この世界は多様性で成り立っています。偏狭な価値観で社会は規定されてはいけません。「違い」を受け入れる姿勢が必要です。モンテッソーリ教育現場では様々な違いがあるがままで子ども達に紹介されます。
例えば、「人種の紹介」。ここでは地球上に住む人間が大きく3種類の人種に分かれることが紹介されます。黄色人種、黒色人酢、白色人種です。子ども達は初めは自分達と異なる肌の色をした人達を怖がります。おかしいと思います。しかし、徐々に違いを受け入れられるようになります。そして、違いがあることが当たり前になり、違いを楽しむようになります。これが、モンテッソーリ教育の究極の目的の平和教育につながっていきます。
先日ステキなニュースが飛び込んできました。テレビ番組の「セサミストリート」に新しいキャラクターが登場しました。彼女の名前はジュリアといい、4歳の女の子です。そして、彼女は「自閉症」です。番組の中でエルモがジュリアを紹介する場面があります。「ジュリアは他の人とはちょっと違うんだ。呼びかけても時々答えないけど、 君のことが嫌いってわけじゃないんだ。 雑音を怖がるのは耳がとってもいいからなんだ。」と。
一人ひとりの「違い」を認める社会であって欲しいという作り手の思いが伝わってきますね。私達に必要な姿勢ですね。実際にモンテッソーリ教育現場では異年齢縦割のクラス構成になっていますから、そこには様々な違いがごく当たり前のように存在します。
モンテッソーリ教育現場は本来あるべき社会の縮図です。