R2年 小学生クラス説明会

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園長からのメッセージ

シリーズ10 2011年12月発信

「子ども中心」と「子どもの言いなり」の違い

今年もあっという間に師走がやってきました。この1年を振り返る時期ですが、今年は何と言っても東日本大震災は避けて通ることのできない話題です。津波で自宅を失った皆さんは避難所での長期間にわたる生活が余儀ないものとなりました。原発の停止による電力不足は節電による暑い夏を私達に課しました。これまで当たり前だと思っていたことが当たり前ではなくなり、「我慢すること」「耐えること」の経験をこの震災は私達に与えてくれました。

この「耐え忍び、我慢すること」は日本人の美徳であった時代があったように思います。テレビのドラマや映画などでもこれをテーマにしたものは高視聴率を得、大ヒットしたものが数多くあります。

しかし、時代は移り変わり、現代はこの「我慢すること」とは無縁の自己中心的ですぐキレル人間が数多く存在するようになりました。この状況は実はこの2世代の期間にわたって見え始めた状況で、今から30年40年前にはあまり見られるものではありませんでした。いわゆる「ハイリスクの子」(危険度の高い子)で、往々にして「すぐにキレル子」の出現です。こういった子ども達は日本にのみ出現したのではなく、時を同じくしてアメリカを中心にして、ドイツやスウェーデンなどヨーロッパ諸国でも同じように現れました。日本ではかつてのこの自己中心的ですぐにキレタ子どもが、今では親の世代になり、「すぐキレル親」になり、モンスターペアレンツやモンスターペーシェントとして問題になっています。

この30~40年の間に大人が中心で、どちらかというと子どもを管理する子育てや、保育、教育から子どもを中心とした子育てや教育へと大転換がなされました。もちろんモンテッソーリ教育も子どもを主体とした教育法であることは揺るぎのない事実です。子どもが中心となる、子どもが主体となるといった考え方は誤りであるはずがありません。子どもにも私達大人と同じように人格があり、一個の人間として敬意をもって接しなければいけません。大人が中心となって子どもを管理することは、子どもの人格を無視することになります。しかし、この「子ども中心主義」の考え方の中に陥りやすい誤りが存在することも事実です。

その陥りやすい誤りとは、「子ども中心」と「子どもの言いなりになる」ことを混同してしまうことです。

この2つはまったく異なることであることをしっかりと心に留めなければなりません。

「子どもを主体」とした接し方は、子どもに課せられた宿題である「発達」が、子ども自身の力でなされていくことを援助することです。そこには子どもの言いなりになって、わがまま放題にさせるような要素は見当たりません。「子どもがこうしたがっているから・・・。」とか、「子どもがこう言っているから・・・。」、「子どもが欲しがっているから・・・。」を全部充足させていったらどういうことになるでしょうか? 断念の経験がなく、「我慢すること」を知らず、自己抑制のできない人間に育ってしまうでしょう。

このことはこの10数年で大きな進歩を遂げた脳科学の視点からも言われていることです。もちろん脳科学の視点からも子どもを管理するよりも、子どもを主体にした接し方の方が有効であるという主張に変わりはありません。しかし、子どもの言いなりは違います。

数は人間の脳を横から見た図です。左側が前です。人間の脳は大きく分けて、脊髄からつながる「脳幹部」と色の付いた「大脳辺縁系」と呼ばれる部分。そして、一番外側の「大脳新皮質」と呼ばれる3つから出来上がっています。この3つの部分は下等動物から高等動物への進化の過程で積み上げられてきたものです。

したがって、一番新しい「大脳新皮質」を人間脳とも言います。「大脳辺縁系」は動物脳と呼ばれたりします。

問題は、子どもの言いなりになることで脳のどの部分が刺激されるのかということです。それは、色の付いた「大脳辺縁系」の部分、つまり動物脳です。動物脳は欲求が叶えられれば叶えられるほどエスカレートし、際限なく求め続けます。がありません。

時に自分の欲することが叶わない経験。これが断念の経験です。時に子どもの要求を我慢させる経験が必要です。この経験によって、人間脳である大脳新皮質の部分で自分を律して、その場の状況に見合った行動ができるように育っていきます。

この断念の経験や、我慢をする経験は0歳のときから必要です。

気を利かせればいたるところにチャンスはあります。

赤ちゃんを抱いてあやしている情景をイメージしてください。抱いているうちは機嫌のよかった赤ちゃんが、寝かしつけると急に激しく泣き出しました。「もっと抱いて欲しい」と要求している赤ちゃんのサインです。もうこれで十分だという判断があるのであれば、抱き上げる必要はないでしょう。これで赤ちゃんに断念しなければならない条件が与えられるのです。赤ちゃんはやがてあきらめて泣き止むでしょう。これが断念の経験です。もちろんことばのしゃべることのできない赤ちゃんあらの発信である泣き声を無視することはいけません。しかし、それと抱くという行為は別のことです。この断念の経験が様々な場で繰り返されていき、自己抑制システムが人生の出発点で出来上がればその後の育ちがいかに健全なものになるかは容易に想像されるでしょう。反対に最初から子どもの言いなりにしていたら、気が付いた時点でこの経験の場を設定し始めるのは容易なことではありません。

あんなに泣いているんだから、かわいそうに。抱っこしてあげればいいのに。」と思われるかもしれません。しかし、かわいそうにと思うのは大人です。すでにそこに無意識のうちに子どもを管理する大人中心の考え方が確実に存在しています。子どもを主体にするというのはそのときの感情に流されるのではなく、この子が健やかに育っていくために今必要なことはどんなことなのかを見極めて子どもに接することを言うのです。

善悪の判断も子ども達は持って生まれてくるわけではありません。生後に私達大人の生活の仕方や、子どもへの接し方によって、つまり環境によってよいこと悪いことを見極められるようになっていきます。

私達大人に必要なことは子どもが生活をしていく上での確固たる枠組みをしっかりと知らせてあげることです。そして、その枠組みは一貫性があることが大切です。お母さんとお父さんの枠組みが違っていたら子どもは混乱するでしょう。そして最後は安易な方を基準として生きるようになります。いつでも、誰もがいけないことをしたらいけないといえる環境。そういう一貫性のある環境の中で過ごす方が実は子どもにとっても過ごしやすいのです。


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