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シリーズ2 2009年6月発信
今年もうっとうしい梅雨の季節がやってきました。見える空はどんよりしていても、その雲の先には爽やかな夏の青空が広がっていることをイメージできるのが人間の素晴らしいところです。心の中はいつもスカッと青空でいたいものです。
シリーズ第2回目として、今回はモンテッソーリが教えてくれる子どもに対する知識の一つとして、「自己教育力」についてお話しましょう。
まずは生まれたばかりの赤ちゃん、新生児を思い浮かべてください。あの赤ちゃん達は自分でやってみようと思ってできること、つまり自分の意志でできることはどんなことでしょうか?
生まれたばかりの赤ちゃんが、自分でやろうと思ってできることはなんと、たったふたつみっつのことしかありません。一つはお母さんの乳首に吸いつくこと。二つ目はそこから出てくる母乳を飲み干すこと。そして、三つ目は泣くことです。
しかし、その後、ほんの短期間でみるみるできることが増えていきます。まずは、一点をずっと見続けることのできる目が完成します。それから首が座り、身近にある物に触れようとし、触れた物を握るようになります。その後、腰が座り、ハイハイができるようになり、つかまり立ちを経て、一歳のお誕生を迎える頃には歩くことができるようになります。こういったできるようになることを発達と呼びます。大切なことは、この発達は子どもを訓練して、教え込んで達成させるものではないという点です。
私達大人は、ともすると「赤ちゃんは何もできない。だからかわりにいろいろなことをやってあげることが赤ちゃんに対する接し方なんだ。」と、盲目的に思い込んでいるところがあるかもしれません。しかし、乳幼児期の子どもには自分の力で何かができるようになるプログラムが最初から組み込まれているのです。先ほど述べた新生児が自分の意志でできる三つのことも、実はお母さんの子宮の中にいる胎児期に指しゃぶりをしたり、羊水を飲むことをしたりして練習しているのです。まだ、人間と出会ったことのない胎児がしていることですからこれは遺伝的にプログラムされているものとしか考えられません。
つまり、子どもには自らの力で育っていこうとする力、その力のことを自己教育力、自己開発力、自己成長発達力と言うのですが、これは命を授かった瞬間から存在しているのです。誕生時にはこの力はまだ内在されたままで、ほとんど目に見える形では現れていないだけのことです。しかし、この力が燃え盛るような場、つまり環境と出会うことができるのであれば、子どもは正しく育つのです。反対に子どもを何もできない、わからない存在と決めつけ、できてわかる大人が子どもに何かを教え込んでいくことが教育であり、保育であり、子育てなんだと思い込んでしまうと子どもの正しい育ちは期待できません。
イタリア人の教育家であるマリア・モンテッソーリは医師としてキャリアを始め、その後教育者へと転身しました。そして、教育や保育においては主体はあくまでも子どもであって、先生を初めとする大人はその子どもの育ちを援助する立場に徹することとしています。つまり、大人が子どもを教えたり、訓練したりして子どもを発達させるのではなく、子どもの自己教育力を背景として子ども自身の力で発達を遂げていくことができるように援助するということです。
正しい方法で発達が遂げられ自己が形成されると、小学校以降は、今度は別の発達の側面を迎え、さまざまな知識や技術を教わって世界を広げていくようになります。そして、その中から自分の生きるべき道をしっかりと決めることができるようになるのです。
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