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シリーズ22 2017年1月発信
新しい教師(大人)と新しい人間(A New Man)
明けましておめでとうございます。今年も子ども達の笑顔と真剣にお仕事に取り組む姿が世界中に満ち溢れることを願います。
今回は「モンテッソーリ教育に学ぶ大人のあるべき姿」についてお話いたします。これは前回、昨年7月にシリーズ21でご紹介したメッセージの続きと考えてください。できればもう一度前回のメッセージをお読みください。
さかなクンについての記事です。その中で、モンテッソーリ教師のみならず大人に必要な要素がいくつも述べられていました。例を挙げて説明してまいります。
『ぶつ切りでなく丸ごとのタコを母に買ってもらった。その日から考えるのはタコのことばかり。図鑑や写真集などでタコを探す。夕食は毎日のようにタコをねだる。絵を描くことが好きで、タコを描きたかった。母は嫌な顔ひとつせず、1カ月近く味付けを変えてタコ料理を作ってくれた。』
子どもが納得いくまで一つのことをとことんやり尽くすことが大切であることを示しています。対象はこの場合には「タコ」ですが、何でもよいのです。そして、この経験が「学び方」の獲得につながっていきます。興味もないのに課せられたことを丸暗記するという学びとは大きく違うことがわかります。旧態然とした方法では学ぶことは苦痛でしかありません。好きなことと出会い、集中的に関わることによって「一生涯を通して学び続ける姿勢」は育つのです。モンテッソーリ教育で育つ子ども像の一節です。
『生きているタコを見たくなり、母に日曜に水族館に連れて行ってもらうようになった。タコの水槽から離れない。タコはタコつぼに隠れて、1日かけても少ししか姿は見えない。「でも目は見えます。黄色くて、表情があってかわいいんですよ」。たまに足が出てきたら「動いた! なんでそれぞれの足が違う動きをするんだろう」と大興奮。母は「タコって面白いんだね。お母さんもタコが気になってきた」と言ってくれた。「タコの魅力に共感してくれ、感動を共有でき、すごくうれしかった」』
ここでは学びの出発点は具体であることの重要性が示されています。具体の最たるものは「実物」です。そして、それを納得がいくまで観察する。子どもの気持ちに共感することによって、子どもは自分のことをわかってくれる人がいることを実感し、幸せを感じます。子どもの物事の理解は具体から半抽象を経て、最終的に抽象的な理解へと進みます。言って聞かせたり、見せたりするだけでは子どもの理解はなされません。聞くこと、見ることの前にその現実が、実体として紹介される必要があるのです。
閉館までいても、タコが姿を現さずため息をついた日。「残念だったわね。でも、魚はほかにもいるのよ」と、母は下敷きを買ってくれた。色々な魚があった。「こんなお魚もいたんだ、って興味がわきました。お魚ライフの始まりです」
「タコ」という一点の興味から始まった掘り下げを広めていく紹介がなされました。子どもの視野を広めていくことは必要です。教えようとする必要はありません。紹介するのです。そして、それに関わるかどうかは子どもが決めることです。強制してはいけません。
母と魚屋に行くと、ほしい魚は1匹丸ごと買ってくれた。角度を変えてはウロコの数、ひれの形、色の濃淡など観察し、絵にした。「母が『すごい、紙から飛び出て泳ぎ出しそう』とほめてくれるのがうれしくて、また喜んでくれる絵を描きたくなりました」。その後は自分で料理に。さばき方は魚屋で見て覚えた。
切り身ではなく、全体がわかるように丸ごと一匹を与えています。子ども理解は全体からウロコやひれという部分へと移って行きます。部分に関わっている時にいつでも全体がイメージされているので今、何をしているのか迷うことがありません。興味が持続されます。そして、子どものアウトプットとして出来上がったものをしっかりと評価することにより意欲や自発性が培われます。
小学校では、授業中も休み時間も魚の絵を描いていた。授業についていけず、家庭訪問で担任に言われた。「絵は素晴らしいけれど、勉強もするようにしてください」。母は「あの子は魚と絵が好きだからそれでいいんです」。将来本人が困ると言われても、「成績が優秀な子もそうでない子もいていい。みんな一緒ならロボットになっちゃいます」。「絵の先生に習っては」との提案には「先生のクセがついてしまいます。好きなように描いてほしいのです」と答えた。母の口癖は「命がとられるわけじゃないんだから」。失敗しても大丈夫だと安心できた。
「何事もまんべんなくバランスをとって」というのではなく、「好きなことを極める」ことを、そして、「それでいいんだ」という強い信念を大人が持っていることの重要性が如実に表れています。この大人の信念、「ぶれない」ことで子どもは安心感を得ます。
モンテッソーリ教育において主体はいつも子どもです。主体が教師で、その教師が決められたことを一斉画一的に子どもに教える、伝授するといった従来の教育の方法とは180度異なります。一人ひとりの子どもが自分のやりたいことを選んで、そこに自分の力をぐっと注ぎ込み、集中的に関わることによって自分でできるようになったり、わかるようになったりします。ここには教師や大人の介在は基本的にはありません。つまり、モンテッソーリ教師は「教えること」が仕事ではありません。それどころかあるべきモンテッソーリ教師像は「教えない教師」です。子どもの中に自己教育力という力が存在し、その力によって自己教育の場が出現することを知っているからです。
モンテッソーリはこの方法によって「新しい人間」が生まれると言っています。新しい人間は受け身ではなく、自分から様々なことに取り組もうとする自発性や主体性、意欲を持った人間です。そして、そういった新しい人間が生まれてくるためには「新しい教師」が必要だと説いています。これは教師に限らず全ての大人がならなければならない姿です。
モンテッソーリ教育など学んだこともなかったであろうさかなクンのお母様は「新しい大人」です。決して強制したり教えることをしていません。いつの日か「モンテッソーリ」という固有名詞がなくなり、社会全体にこの考え方が満ち溢れた時にモンテッソーリの願った平和が訪れるのでしょう。
教師中心で、一斉画一の教育を経験してきた私達大人が意識を変えていかなければなりませんね。
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