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シリーズ18 2015年4月発信
モンテッソーリ教育は子どもの心に火をつける。
桜前線が南北に長い日本列島を日を重ねるごとに北上し、今年も新しい年度が始まりました。子ども達にとっては新しい環境、新しい先生との出会いの時期でもあり不安のある時期でもあります。こんなときに親も子どもと同じように不安になってしまってはいけません。「あなたなら大丈夫。」 背中をちょっと押してあげて、笑顔を絶やさず接してあげたいものです。少しくらい時間が掛かるのは当たり前。この不安な時期を乗り越えることもこの後の子ども達の人生にとっては貴重な経験になります。乗り越えられるようにいつもと変わらぬ安心感を与えてあげましょう。
あなたの才能って何?
世の中を見渡すと多くの人が自分の才能をうまく生かせていません。大多数の人は人生において自分の才能が何なのかわからず、そもそも才能があるとも思っていません。何の取り柄もないと思っている人に出会うのは珍しくありません。そういう人は自分の仕事を楽しむことができません。この人達は人生を黙々と耐えて生きるだけです。仕事から喜びを見いだすことはありません。楽しむというより耐えながら週末が来るのを待っています。
一方で仕事が大好きで他のことをするなんて考えられない人もいます。でもこのような生き方をしている人は多くありません。それどころか実際はこのような生き方の人はごく少数派です。悲しい事実です。
大きな原因の一つは教育にあります。教育が子どもの才能を引き出すための手段だと思うかもしれませんが、反対にある面で教育は多くの人をその持って生まれた才能から引き離しているのが現状です。だからこそ現在世界中で「教育システムの改善」が進められています。でも十分ではありません。「改善」では役に立たないのです。なぜでしょう?破綻しているモデルを改良するだけだからです。 必要なのは教育の「改善」ではなく、教育の「革命」なのです。 教育は全く別のものにならねばなりません。私達には180度の視点の変換が必要です。マリア・モンテッソーリは100年以上前にこの教育の革命を行ないました。
モンテッソーリ教育現場では、子ども達が目をらんらんと輝かせて、「今日は何しようかな。」とお仕事に情熱を傾け、注ぎ込みます。乳幼児期のこの「自分で選んで、一生懸命関わる」経験が子どもの心に火をつけるのです。いったんついた火は一生消えません。育ちはぶつ切りにすることはできす、連続するからです。これが、モンテッソーリ教育で育つ子ども像の一節にある「一生涯を通して学び続ける姿勢」につながります。
心に火がついた子どもの姿
いったん子どもの心に火がつけば、その子どもは情熱を持ってさまざまなことに自分から関わろうとします。これが自発性であり、主体性です。一斉画一に知識を伝授する方式で、子ども達が受身になった教育システムからはなかなか現れてこない姿です。
幼児期に心に火がついた子どもは燃え尽きません。一般的に親や大人はわが子に対してどうしても「一本道」を進ませようとします。教育において私達大人が囚われがちな考えです。それは教育の最大の目的はよい大学に入り、安定した職に就くことだという思いこみです。それも特定の大学に入学させようという考えにとりつかれています。ここが目的になってしまうので、この目的を達成するともう燃え尽きてしまうのです。人間の社会は学力や学歴といった単一の能力によって成り立っているわけではありません。才能の多様性によって成り立っています。私達にとっての重要な課題は能力と知性についての私達の考え方を再構築することです。そして、その手がかりがモンテッソーリ教育の中にはあります。
過保護、過干渉は子どもの心に火をつけない
子どものもって生まれた「自己教育力」が発揮されない大きな原因の一つに過保護や過干渉があります。過保護や過干渉は無意識の内に大人の中に、「この子には任せられない。私がやってあげなければ、教えてあげなければ。」という謝った子ども観が存在します。真の意味で子どもが信用できないのです。子ども時代に過保護、過干渉でちやほやされていつも注目の中心にいることによって、人生の目標も注目の中心にいることになり、他者から得ることばかりを考えるようになります。心理学者のアドラーは「甘やかされた子どものまま大人になった人々は、われわれの社会の中で最も危険な層の人々である。」 と主張していますが、まさにその通りでしょう。
人間がその才能を花開かせるのは機械的で自動的なプロセスではなく「有機的」なプロセスだと捉える必要があります。子どもの成長の結果を予言することなどできません。ましてや、私達が子どもの将来を決定することなどもってのほかです。できることは農夫のように花開く条件を整えることだけです。つまり、「環境を整備し、種をまくこと」が私達の役割です。蒔かれたどんな種に、いつ花を開かせるかは一人ひとりによって違って構わないのです。
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